日蓮宗長唱山大立寺
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コラム


平成25年5月作成

○布施について


■はじめに

 今回のコラムでは、みなさんが一番気になっていると思われる「布施」について書いています。
 少し踏み込んだところまで書いたつもりですが、みなさんの期待に添えるような内容ではないかもしれません。
 「布施」の本来のあり方を学ぶというつもりで読んでいただければ幸いです。



■言葉の意味

 まずは、言葉の意味から説明していきます。

 「布施」とは、サンスクリット語「ダーナ」が意訳されて出来た言葉です。
 お坊さんが掛けている「袈裟(けさ)」は、元々、托鉢の時に渡された、使い古しの布をパッチワークのように縫い合わせ て作られていました。これを「糞掃衣(ふんぞうえ)」と言います。
 この「布の施し」にちなんで「布施」と訳されたのですが、「ダーナ」は単に「与える」「施す」という意味です。
 「ダーナ」は、「布施」の他に「檀那(旦那)」「檀」と音訳され、単に「施」とも意訳されています。
 したがって、「布施=施=檀那=檀」で、どれも「与える」「施す」という意味です。

 ちなみに、一般に、「檀那(旦那)」は、「夫」のことを指す言葉として使われています。これには、「檀那=与える」の意味が転じて「与える人」を指すようになり、昔は夫が主に生計を立てていたので、「檀那=夫」として使われるようになったという経緯があります。ですから、共働きが増えた現在では、夫婦ともに「檀那」と呼びあってもいいのかもしれません。

 また、「与える人」を意味するサンスクリット語は別にあり、「ダーナ・パティ」がそれですが、こちらは「檀越(だんのつ)」と音訳され、「施主」と意訳されています。
 「檀家」とは、「檀那」がいる家・家族を指す言葉です。近世になって、各一人一人の「檀那」が、「家」を中心にまとめられ、制度化されたことで、「檀家」と呼ばれるようになりました。



■「布施」とは

 「布施とは」と尋ねられたら、すぐに「お金を渡すこと」というイメージを持たれる方が多いかもしれませんが、しかしそれは「布施」の一部分でしかありません。

 「布施」とは、言葉の意味の通りですが「与える、施す」という"修行"を意味します。悟りに至るための6つの仏道修行(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を「六波羅蜜(ろくはらみつ)」と言いますが、その中でも最も重要とされるのがこの「布施」行です。

 「自分のことしか考えない」という我執の心・我欲を捨てて、「他のために」自ら進んで(喜んで)与える・施すという行で、「喜捨」ともいわれます。

 与えるものはお金や財物だけではありません。親切な行いを施すことも布施行です。

 布施行には下の三つの種類があります。

 1.自らの財産を施す「財施」
 2.畏れ・不安を取り除き安心を与える「無畏施」
 3.お経をあげるなど法(教え)を施す「法施」

 お金など財産を施す「財施」は布施の中でも最も行いやすい「布施」とされ、一番多く行われています。ですから「布施」と聞くと「お金を渡すこと」と連想しがちなのだと思います。
 親切な行いをするなどは「無畏施」と考えてよいでしょう。また、お坊さんがお経をあげたり、お説教をしたりするのが「法施」です。

 また、「無畏施」の範疇に入ると思いますが、財産を用いないで行う「無財の七施」という布施もお経に説かれています。 下に簡単に説明しておきます。

 1.眼施(げんせ)
  周りの人たちと、優しい、思いやりのある眼差しで接する。
 2.和顔施(わげんせ)
  周りの人たちと、優しい、和やかな顔、表情で接する。
 3.愛語施(あいごせ)
  周りの人たちに、優しい、温かい言葉で話しかける。
 4.身施(しんせ)
  骨身を惜しまず、真心をこめて奉仕する。
 5.心施(しんせ)
  様々な布施を行うときに、相手の気持ちを考え、優しい
  心配りをする。
 6.床座施(しょうざせ)
  他の人のために気持ちよく席をゆずる。
 7.房舎施(ぼうしゃせ)
  快く自分の家に迎え入れて休ませる。

 これらは、行おうと思えばいつでも、簡単にできる「布施」行です。以下の注意を守りながら、是非一つずつ行ってみて下さい。


  スジャータによるお釈迦様への乳がゆの施し



■「布施」を行う上での注意点

 「布施」の大体のイメージをつかんでもらったところで、ここからは、布施を行う上での注意点を説明していきます。


○布施は対価ではない

 一番勘違いされがちなところから説明していきます。

 お坊さんがお経をあげて御布施をもらうというとき、その御布施はお経に対する料金だとお考えの方が多いようですが、これは違います。
 上の説明にもあったように、布施は何かをしてもらったから、それに見合うだけの対価として支払われるものではありません。布施はあくまで「自ら進んで」我欲(財)を捨てる行です。

 お坊さんがお経をあげて御布施をもらうという場面では、お坊さんは「法施」の修行をさせてもらっていて、お檀家さんは「財施」の修行をさせてもらっているだけです。2つの修行がそれぞれ在るだけで、互いの行為が等価である必要はありません。

 ですから、御布施の金額に応じて、拝む時間を変えたり、より丁寧に拝んだりするということはありません。また、お経が短いから長いから、上手いから下手だからといって、御布施の金額が変わるわけではありません。

 なお、料金・対価ではないので、御布施の表書きに、料金をイメージさせる回向料、お経料と書くのは相応しくありません。

 以上のことから、よく耳にする「御布施はいくらですか」というのはおかしな質問ということになります。お坊さんは「お気持ちで」としか答えようがありません。

 とはいえ、「お気持ちで」と言われても、何がお気持ちかが分からないというのも事実だと思います。いきなり慣習の話になりますが、昔は村で言わば"相場"というのが決まっており、近所付き合いの中で、自ずとそれを皆が知っていましたが、今はそんな情報が自然と入ってくるほど、近しいコミュニティは少なくなっているからです。

 そこで、大立寺では、檀信徒総代さん(檀家さんの代表)が"相場"を一つの表にまとめられました。本来の「布施」を突き詰めると、これはあるはずのない物なのですが、現状を踏まえ認めています。
 しかし、本来の「布施」とは何かということをしっかり説明した上で、しかも「これはあくまで一つの"基準"であって守らなければならないものではありません」と念を押して、理解してもらった檀信徒の方にしか渡していません。
 理想と現実とは違うもので、悩ましいところですが、この方法が、今のところ折衷案だと考えています。

 寄付を募るときなどいくらと一応定めて言わざるを得ない場合もありますが、何の躊躇、譲歩もなく、対価を請求するかの如く、「今回の法要に対する御布施はいくらです」などということは、大立寺ではありえません。
 周りに、平気でそのように発言をする"お坊さん"や葬儀関係の"業者"の方がおられましたら、一度「布施」とは何ですかと尋ねられると良いかもしれません。


○させていただく、見返りを求めない

 布施は「与えてあげる行」ではなく、「与えさせていただく行」です。
 「対価ではない」ことと同じような話ですが、これだけ与えてあげたのだから、これぐらいはしてもらいたいと見返りを求めてはいけません。
 常識的には「布施」をしてもらったら「ありがとう」と言ってしまいますが、してもらっても「ありがとう」と言わないのが本来のあり方です。「布施」は自らの欲をなくす行なので、「これで少し欲を無くせました。布施させていただいてありがとう」と、布施をした方が「ありがとう」と言うものなのです。

 ベトナム戦争の時に次のようなことがありました。
 難民センターに収容されていたお坊さんが、国連の援助機関からの配給を受けませんでした。それは、お坊さんが援助機関から配給を受けると、周りの人たちが布施を行えなくなってしまうからです。
 少ない配給の中から、お坊さんに布施した人たちは、「あなたがお受けして下さったので、布施することができました。ありがとう」と言ったそうです。


○対等な立場で

 上の項目と少しかぶりますが、持つ物が持たない物に与えてやる、恵んでやるという行為ではなく、対等な立場に立ってさせていただくのが布施です。
 たくさん持っているから与えてやろうという「布施」は、自己満足なだけです。それは言わば不要な物を捨てているだけで、欲を離れる修行にはなりません。とはいえ、どんな立場からであっても、困っている人に対して、社会に対して、何かを与えていくということ自体は、否定する必要はないのですが。
 対等な立場ということは、たくさん持っているなら、その全てを投げ出して行うぐらいなのが布施ということです。

 与えられる量や施せる行いの程度は、その人その人に応じて異なりますが、その人にとってそれを与えれば自分の状況が乏 しくなるという中であっても、互いに与え合っていくというのが布施で、そういう意味で「対等な」立場ということです。

 この項目は、少々分かりづらいかもしれません。
 このことを端的に示した「長者の万灯よりも、貧者の一灯」というお話がありますので、こちらを参照して下さい。厳密には少しずれますが、「供養」を「布施」と思って読んで頂ければ、分かりやすいかと思います。


○忘れる

 「見返りを求めない」ことと少しかぶりますが、「私は見返りなど求めていない。無心で布施をしているんだ。」と言いながら、無意識でも「私はこれだけのことをしたぞ」と、自己満足をしていては、見返りを求めたとされてしまいます。

 そこで、重要になってくるのが、布施をした人と布施を受けた人が、その布施をすぐに「忘れてしまう」ということです。

 しかし、これはなかなか難しい。「させていただいた」と謙虚に言っていても意識はしてしまうものです。そこで、初めのうちは「覚えていても」構わないとされています。
 卑近な例になってしまいますが、禁煙しようと思って吸わないでいると、吸えないのが苦しいのですが、吸わないことに慣れてしまうとすっかりその苦しみは無くなってしまうというのと似ています。
 布施しようと思って行っているうちは意識的にしか行えないのですが、布施することに慣れてしまうと、布施していることにも気付かなくなってしまいます。すなわち、自ずと「忘れる」ときがやってくるのです。
 あのとき困っていたお婆さんの鞄を持ってあげたんだと自慢しているうちは、まだまだで(最初はそれでいいのですが)、 そんなことが当たり前となって、自然に施せるようになったときに行っている布施があるべき布施なのです。


○三輪清浄(さんりんしょうじょう)

 「三つの輪」=「与える者」「与えられる者」「与える物」がそれぞれ清浄、適格でなければならないとされています。

 「与える者」が適格かどうかは、今回のコラムで採りあげた注意を守って布施をしているかということです。
 
 「与えられる者」が適格かどうかは、お坊さんと檀家さんとの関係でいえば、布施を受けるのに"相応しい"僧侶であるかということです。具体的には説明しにくいですが、「お坊さんらしいお坊さんか」というと分かりやすいかもしれません。

 「与える物」に関しては、「与えられる者」にとって、相応しい物、量であるかということです。例えば、老眼の人に、近眼のメガネを渡すことは相応しくありません。
 しかし、この点に関しては、常々そうはいかないところがあります。
 布施はあくまで「与える」という行なので、布施を完成させるためには、与えられる者はもらってあげなければなりません。
 一番初めに触れたように、使い古した布でも受け取らないと布施行をさせてあげられません。
 ベトナム戦争の話でも、周りの人たちから、食べきれないほどの施しを受けたとしても、もらってあげなければなりません。
 お釈迦様は、腐っていると分かっていたのに、信者が施してくれた「腐ったキノコ」を食べて、亡くなったといわれています。


  お釈迦様の涅槃図


○嫌々ではなく喜んで行う

 初めに「喜捨」とも説明しましたが、自分で納得して、心から喜んで与えるということが、非常に大事なことです。
 嫌々行っていては、正しい布施にはなりません。

 多かれ少なかれ、互いに、与え合い、他に施し合わなければ、この世界で生きていくことはできません。
 たとえ、自分の欲だけを追い求めて生きていくことができたとしても、そのような生き方の最期にはむなしさしか残りません。
 心から喜びを持って、他に与え、施すことができるようになれば、生きることは楽しくなります。そして、それが生き甲斐と感じられるようになるはずです。

 互いに「与え続け合う」ということが、「生きる」ことであり、悟りへ至る道なのだとお経には説かれています。
 そして、みんなが喜んで布施し合えている社会は優しい世界となります。それこそが仏の世界、「仏国」です。

 ずっと目指しつつも、到達できない理想的な"国"なのかもしれません。今の世の中を見渡すと、そこから少しずつ遠ざかっているといった方がいいのかもしれません。
 しかし、せめて法華経に、仏教に縁を持った者は、「布施」の実践に勤め、互いに優しい世界にしていくことを目指していかなければならないと思います。



■終わりに

 ここから、続けて六波羅蜜の残り(持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を説明し、六波羅蜜とお題目(南無妙法蓮華経)のお話をしたいところですが、今回のコラムでは、ここまでにしておきます。



 日蓮宗小辞典  うちのお寺は日蓮宗  日蓮宗仏事故事便覧
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○お坊さんの呼び方

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○お数珠について②

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 まとめ動画 


○東日本大震災第三回忌に臨んで(前編)

○東日本大震災第三回忌に臨んで(後編)
  
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