1.開創
当山は、山号を長唱山、寺号を大立寺といい、慶長5年(1600)頃、圓通院日純上人によって開創された日蓮宗のお寺です。
開山の日純上人は、京都松ヶ崎にある涌泉寺の二祖であり、また京都八本山の一つである本山立本寺の第十三世の猊座にもつかれたお上人です。
2.当山と毘沙門堂門跡との関係
当山の近くには、天台宗五大門跡寺院の一つである毘沙門堂があります。毘沙門堂の御門主とは山科の地に草創以来(※)、100年以上にわたる親交がありました。本堂正面に掲げられている「圓通殿」の額は、毘沙門堂準后宮御門主の御真筆と当山の古文書に記されています。
また、当山の古文書によると、日蓮聖人550遠忌に当たる文政10年(1827)には毘沙門堂御門主より
「本堂前荘厳の為、菊御紋入釣提灯弐張、御香料並びに紫御幕につけて、免状写を拝備す。尚、菊御紋入釣提灯弐張と免状写については、文政九年戌十月、安田伊賀守 在判、今小路民部郷 在判、大立寺日恭」
と、証明されています。
この免状写御下賜により大立寺の日蓮聖人像には、十六弁菊の御紋章付き御袈裟の着用が許可されました。
当山の過去帳には、毘沙門堂御門主の御戒名が記載されており、それぞれの御命日には御回向を申し上げていました。また、聞き伝えによると、毘沙門堂御門主御遷化の際には、御中陰中、大立寺住職が法華経を読誦申し上げたとのことです。
さらに、大立寺の山門は毘沙門堂より下賜されたと伝えられており、瓦には十六弁菊の御紋章があります。このような門は一般寺院では使用できなかったということで、古くから続く天皇家ゆかりの御門主との親交は、大変名誉なことでありました。
(※) | 毘沙門堂は、元々京都御所の北方にあったそうで、焼失や荒廃により幾度か場所を変え、寛文5(1665)年に現在の地に建立されました。後西天皇皇子の公弁法親王(1669−1716)が当寺で受戒し、晩年に当寺で隠棲されて以後、門跡寺院となり、「毘沙門堂門跡」と称されるようになりました。 |
3.本成院日忍上人
戦前から戦後、高度成長と劇的な変化をしてきた昭和という時代を、檀信徒教化と自身の修行によって走り抜けられたのが、当山第51世本成院日忍上人です。
私(第53世利幸)の祖父に当たる日忍上人は、御祈祷を通じて檀信徒教化に努められると同時に、自分の御修行を一生涯続けられた方でした。
寝ても覚めても、檀信徒との交流以外は、読誦行に励まれました。特筆すべきは、90歳で遷化される少し前まで続けられた横川定光院(日蓮聖人御遊学の地)への日参でした。雨の日も風の日も、夏の日も冬の日も休むことなく日参されること1万日以上、30数年に渡って団扇太鼓を叩いてお題目を唱えながら比叡山の山を歩いて登りお参りされました。
残念なことにこれといった記録が残っておらず、檀信徒の方々のお話からしかその様子はうかがい知れませんが、この功徳の甚大なことは計り知れません。
「私は業が深いから」が口癖だったと言われている日忍上人が、自らの罪障を消滅するためだったのか、また一切衆生の平和を祈るためだったのか、目的は今では想像する以外に知る由はありません。しかし、目的はどうであれ、この功徳によって、少なくとも寺門が興隆し、檀信徒の信心が増進したことは事実です。現在建っている本堂もまたその果報として、昭和56年(1981)、日蓮聖人第700遠忌に落慶されたものです。
長唱山大立寺(だいりゅうじ)
〒607-8008 京都市山科区安朱東海道町56 詳しくはこちら