平成24年7月作成
○インド仏跡参拝紀行文(5)
インド全体図
■5日目(3月7日)
旅の中日となった5日目は唯一といっていい程、ゆっくり寝られる朝でした。
が、ここぞとばかりに早起きして、ブログを書くことにしました。この旅では、旅の無事を報告することも兼ねてインターネットが繋がる時には、ブログを書いていました。
さすがネット大国インドで、大体どこのホテルでも公衆無線LANが使えるようになっていました。1時間いくらと金額が定められていて、お金を支払うと、コードと暗証番号が書かれたカードや紙をもらえます。それをネットの接続画面で打ち込むと使えるようになります。
ちなみに、携帯電話も発達していて、何もないという田舎でも現地の人は携帯を使っていました。電波を遮るような山とか高層ビルとかが無いからかもしれませんが。携帯はインドでもスマートフォンが普及していて、目の前に広がる混沌とした光景とのギャップが面白かったです。
このホテルでも公衆無線LANが繋がると聞いていたので、早朝からフロントに行って、お金を払って、番号をもらいました。が、全く繋がりませんでした。こちらの機器の故障かと思い試行錯誤した末、フロントの方が持っていた携帯電話はどうかと尋ねたところ、そちらも全くダメでした。機器の接続だけで、1時間ほど費やしたのに…。ということで、ちゃっかりお金は返してもらいました。ブッダガヤの街は停電もちょくちょく起こっていました。インターネットも同様にまだまだ不安定なのだろうと思います。
二日目のブッダガヤは、ブッダガヤから尼蓮禅河(ナイランジャナー川)を挟んで東側のセーナ村(スジャータ村)にあるスジャータのストゥーパ(お墓)見学から始まりました。
ここには学校があって、到着すると学校の子供達がたくさん集まってきました。
インドではクリケットというスポーツが盛んで、少し寄せてもらって子供達とも交流しました。
子供達の中には、待てないでホーリーの色かけをやってしまった子供もちらほらいました。明日はどうなることやらと少し不安げに見ながら、写真を一枚。
スジャータとは、苦行の後沐浴を終えたお釈迦様に初めて、乳がゆを供養された女性です。お釈迦様は、何年にも渡り苦行をされますが、これでは悟りを開けないと、山を下り、尼蓮禅河(ナイランジャナー川)で沐浴をされます。沐浴の後、断食などの苦行で衰弱しきったお釈迦様に、乳がゆを供養されたのがスジャータです。この供養のお陰で、鋭気を取り戻したお釈迦様は、ブッダガヤの地で瞑想に入られ、悟りを開かれることになります。
そのスジャータのストゥーパから、麦畑のあぜ道を15分程歩くと、スジャータが乳がゆを施したとされる場所に建てられた寺院に着きました。
途中、ずっと奥の方にうっすら山が見えました。今回の旅では時間的に寄れなかったのですが、この山が前正覚山(悟りを開く前の山)といって、沐浴に下りてこられるまで、お釈迦様が苦行されていたという山です。
歩きながら、豆を試食しました。そこら辺に生えていた野生の豆でしたが、みなさん食べておられたので、怖々でしたが口にしました。豆カレーに入れる豆と教えてもらったのですが、決して美味しいものではなかったです…(汗)
セーナ村(スジャータ村)はまだまだ貧しいところで、お寺以外には、付近に数件の家しか建っていませんでした。
ちなみに下の写真の空間がお寺です。日本の寺院とはだいぶ異なるので、正直ここだと言われるまで「お寺」を探してしまいました。
ここでも、スジャータへの感謝を込めて参加者全員で法要をさせて頂きました。
帰りも歩いて、来た道を帰ったのですが、先ほど仲良くなった学校の子供達と一緒に帰りました。
教育を受けている子供はあまり物乞いをしません。リーダー格の男の子(下の写真で太鼓を持っている子)は、物乞いしようとする小さい子供を叱っていました。やはり教育は大事だなと思いました。
私たちの持っていた団扇太鼓に興味を持ったらしく、叩いて御題目を唱えながら一緒に歩いてくれました。何とも微笑ましい交流でした。
それから一度、ホテルに戻ってトイレ休憩をとりました。ホテルからセーナ村(スジャータ村)まではバスで約15分、また次に向かったズイホウスクールまでは約10分とスムーズに移動ができました。
しかし、ズイホウスクールまでの道は舗装されておらず、なかなかのでこぼこ道でした。今まではこれが普通だったと教えてもらい、インドで時間通り着けないのは当然だなと思いました。インドでも最近は舗装道路が増え、だいぶ時間通りに移動できるようになったそうです。
ズイホウスクールとは、スジャータホテルの説明のところで少し触れました、三木随法上人の遺志によって建てられた小学校です。
三木上人は、「スジャータが乳がゆをお釈迦様に供養していなければ、今の仏教はなかったかもしれない。私たちはスジャータから大きな恩を受けている。」と考えておられました。若い頃よりインドを訪れ、村の貧しさを見ては、何か恩返しをしたいと思われていた三木上人でしたが、57歳の若さで病気で亡くなられてしまいます。そこで、この三木上人の遺志を汲み、有志の日蓮宗僧侶によって平成16年に建てられたのが、ズイホウスクールです。
でこぼこ道を進んでいくと、突如バスが停まりました。周囲を見渡すと、畑の真ん中にぽつんと何かが建っていました。
ヤギや牛を見ながらあぜ道を進んでいくと石造りの小屋が建っていました。前には、御題目の塔が建てられていたので、ここがズイホウスクールだと分かりました。
強い日差しを浴びながら、屋外で御題目の塔を前にして、ここでも法要をさせて頂きました。
法要中、見渡す限り畑が広がっているようにしか見えなかったのですが、どこからともなく多くの現地の方が集まってきました。どこかに隠れていたのかと思う程の多さでした。
翌日3月8日は、随法上人のご子息が来られて、ズイホウスクールの卒業式と入学式が行われると聞いていたので、1日勘違いして集まって来られたのではと思い少し恐縮してしまいました。
ちなみに、ズイホウスクールでは、年齢に関係なく4年間同じクラスで、みな同じ教育を受けていきます。だから、入学式と卒業式は4年に一度しかありません。それでも、先生の手配、教科書、筆記具の調達など運営は厳しいようでした。最近では国とは別の組織によって、このような田舎にも学校が建て始められているとのことでしたが、建てただけで運営をせず放置されてしまっているケースも多いとも教えてもらいました。その点、ズイホウスクールは厳しい運営は続くものの、スジャータホテルのオーナーに普段から管理してもらっているため、しっかりと学校として存続しています。
法要後は、ぎゅうぎゅう詰めになりながら、集まった子供達(おそらくほぼ生徒)と参加者が教室の中に入って、こちらが用意したお菓子を配っていきました。しっかり順番を守ってもらっていたのには感心しました。
学校によっても違うもので、貧しさは今までの所とそれほど変わらないのに、ここの生徒はホントに誰も手を出してきませんでした。よく教育されていました。しつけと言ってもいいかもしれません。学校に行っているかいないか、どこの学校に行っているのか、それぞれで子供達の違いがよく分かり、改めて教育の大切さを感じました。また、日本がどれだけ恵まれた環境にあるかということも痛感しました。どれだけ厳しい経済状況にあるといっても、日本は世界的には相当に裕福なのだと思います。初等教育が誰でも受けられるということは凄いことです。それなのに…。学級崩壊を起こしている日本。学べることを有り難く思える対策が何らか必要なのだと思います。
教室の中には、机も椅子もなく、黒板だけがありました。後ろには簡単な棚があり、ノートが積んでありました。中を少し覗いてみると、丸が1つもない…。簡単な計算が出来ていませんでした。何歳から何歳まで受け入れているのかは分かりませんでしたが、しつけは出来てもやはり勉強を教えるのは難しいようでした。
配り終わった後、子供達と教室をバックに記念撮影をしました。
どの子供達も写真は大好きで、カメラを向けるとみないい顔をしてくれました。
ここでも子供達と触れあいながら、バスまで戻りました。
ホテルに帰ってから、ホテルのオーナーに、ズイホウスクールへの参加者からの寄贈品を託しました。これは、事前に参加者からノートやボールペンといった筆記具、Tシャツなどを集めておいた物で、翌日の入学式のときに子供達に渡してもらうように頼んでおきました。
昼食をとって午後からは、青年会員と参加者有志でブッダガヤの町を唱題行脚しました。有志といっても多くの参加者が、35度にもなろうかというほどの暑さの中、参加して下さいました。ちなみに、足の悪い方などは、添乗員さんとバスで各国の寺院にお参りされていました。
各国仏教寺院が建ち並ぶ中、御題目の声を街中に響かせる。まさにこの地から始まった仏教が極東、日本まで伝わり、その恩徳に預かって生かさせて頂いているということを、この地のお釈迦様に報告しているようで、これまた何とも有り難かったです。
当初は大塔まで行くコースを予定していたのですが、参加者の体調も考え、約1時間、町を一周して終了しました。それでも、途中、一心寺(日蓮宗)や日本寺といった日本寺院に参拝し、法要をさせてもらうなど内容の濃い、思い出に残る行脚ができました。
個人的には、大立寺の檀信徒お二人ともと一緒に行脚ができて、大変幸せでした。
団扇太鼓を、この時のためだけに、日本からはるばる3本持っていった甲斐がありました!!
この旅の中で唯一連泊する地でもあり、旅も中日となって体調を崩される方も出てくるだろうと、この日は比較的ゆったりとした日程を組んでいました。行脚の後は、自由行動にし、夕食まで各々好きに過ごすことが出来ました。
残りの旅のために部屋で休息をとられる方、大塔まで瞑想や唱題行に向かわれる方、歩いて町の散策に向かわれる方、バスに乗ってショッピングに向かわれる方と様々でした。
その中で、私は当然修行にと言いたいところですが、ショッピングに同行させて頂きましたm(_ _)m
まずは、参加者からの要望に応えて、お酒屋さんへ。インドではあまりお酒が飲まれませんので、お酒屋さん自体が珍しいようでした。売られていたのは主にラム酒とビール。私は、日本にいてもあまりお酒を飲まない方なのですが、記念に小さなラム酒を買いました。が、実は4ヶ月が過ぎた現在でもそのまま置いてあったりします。どう飲んでいいのか分かりません(笑)
それから、木綿生地の商品を探しに市場へ向かいました。ここがいかにもインドらしくて印象に残っています。田舎のバザールというか、アジア映画のワンシーンで出てくるような活気あふれる感じが非常に良かったです。
結局、いいお店は見つからず、そのままぶらぶら歩いていると、昨日お世話になった(?)お土産屋さんのお店の前辺りに来ました。このまま参加者と目的もなく散策するよりも少し冒険したいという気持ちが出てきて、昨日の御礼も兼ねて少し立ち寄ることにしました。といっても、一人で行くのはいくら何でも危険かと思い、先輩のお上人にお願いして二人で行きました。
お店の前に行くと、待ってましたとばかりに近付いてこられました。お店はお兄さんとされていて、何とも、何とも、何ともなお店でした(笑)
置いてある土産物には汚れやキズがあり、綺麗な御曼荼羅もよく見ると内容はチベット仏教、しかも端が切れていました。宝石類や数珠もうーんという品質と法外な値段(日本の方がもっと安くていい物が買えるというくらいの物)。インドでは普通なのかもしれませんが、とても日本人が買いたくなるようなお店ではありませんでした(汗)
が、昨日のガイドの御礼もあるのでそこは義理堅く、一生懸命買える物を探しました(笑)
交渉は日本語でできますし、二人いるので強引なことをされる心配も少なかったので、会話を楽しみながらちょっとした物を探しました。
途中、写真を撮りながら、毎年神戸に行くんだという話を聞かされながら、暑くて狭い奥の部屋にちょっぴり閉じ込められたりもしながら、インドでの買い物を楽しみました(笑)
結局、先輩は見事に何も買わずに乗り切り、私は初めに決めていた予算の範囲内で買えるだけ、ホントにちょっとした物を買いました。
その後は、これも買ってあれも買ってと言われながらでしたが、別の買い物に通訳として付いてきてくれ、ホテルの前まで送ってもらいました。これも今となってはインドらしい良い思い出です!!
ホテルの前に来ると野良牛がぞろぞろと同じ方向に歩いていました。聞くと皆時間なので、寝床に向かっているとのことでした。やはりインドの牛の中には、人が入っているんじゃないかなと思いました(笑)
夕食では、各参加者が日本から持って来た日本食の分配をしました。5日目となりそろそろインドにも慣れてきた頃で、インド料理の合う合わないもそれぞれ分かってきたので、各々持参した日本食を、余っている人から足りてない人へ譲り合いました。必要な所に物が行き渡り、荷物も減る。非常に良いアイデアだったと思います。参加者同士もだいぶ仲良くなってきたので、これだけのことでしたが、それなりに盛り上がりました。
そして、この夕食では、ホテルの計らいで、スジャータがお釈迦様に供養したであろう「乳がゆ」も用意して頂きました。私も少し頂きました。米つぶが無くなるほどミルクで米を煮たおかゆで、少し砂糖が入っていました。カレーと少し距離を置きたくなっていた私には非常に優しく感じられる料理でした。美味しかったです。
普通なら、ここで今日はゆっくり休みましたとなるのですが、さすが青年会の旅行。これだけでは終わりません。夕食後、ミーティングなどの後少し仮眠をとって、夜中の1時半にホテルのフロントへ集合しました。もちろんこれも有志だけですが、なんと深夜にホテルを抜け出して、あのインドのお祭り、ホーリーの前々夜祭を見に行ったのでした。
この前々夜祭は、色をかけるのではなく、大きな火を焚く火祭りでした。
大塔やホテルがある繁華街(?)から少し離れた現地の人達が暮らす住宅街を通り抜け、草原のような所に出ると大きなわらの束が積んでありました。しかし、お祭りは2時からだったらしく、夜中になってぐっと冷え込んだ真っ暗な草原の中で、半袖で来てしまったことを悔やみつつ、早く火で暖まりたいと思いながら、みんなそわそわしながら星を見て待っていました。
しばらくすると、2時にはまだ少し時間がありましたが、どこからともなくぞろぞろと子供達がわらの束のところに集まってきました。その内の一人が何の前触れもなくおもむろに火を着けると、乾燥したわらを火は瞬く間に駆け上り、大きな炎となりました。すると、遠くの方からも至る所で炎が上がり始め、火祭りが始まりました。
子供達は、それぞれ手にした紐の付いた燃料に火を着けて、グルグルと振り回しながら走り回り、それを持っていない物はシャンッシャンッとなる金属の楽器を夜中とは思えない程豪快に打ち鳴らしてはしゃいでいました。
ホーリーのために、ヒンドゥー教の神さまを起こして寝不足にさせる儀式なのかなと思いながら見ていましたが、真相は結局分かりませんでした。お祭りとしての善し悪しはともかく、日本人はあまり参加したことがないであろうお祭りを体験できたということが良かったです。
特にクライマックスがあるわけでもなくひたすら同じ事が続いていたので、適当に切り上げてホテルへ戻りました。そして、翌日のホーリーへの不安がまた一段と高まってしまい、中途半端に目が覚めてしまったこともあって寝付きは悪かったものの、翌日も早朝より大塔にお参りすることになっていたため、すぐにベッドで横になりました。
>> 6日目へ続く >>
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○日蓮宗について
○お坊さんの呼び方
○お線香のあげ方
○お数珠について①
○お数珠について②
○お数珠について③
○御札の祀り方
○金封(のし袋)について
○「祈り」について
○花の供養について
○お灯明について
○お経本のご紹介
○大立寺のお盆①
○大立寺のお盆②
○「お膳」について
○塔婆について
○木魚と木鉦
○お仏壇について①
○お仏壇について②
○お墓について①
○お墓について②
○布施について
○お経とは
○インド仏跡参拝紀行文(1)
○インド仏跡参拝紀行文(2)
○インド仏跡参拝紀行文(3)
○インド仏跡参拝紀行文(4)
○インド仏跡参拝紀行文(5)
○インド仏跡参拝紀行文(6)
○インド仏跡参拝紀行文(7)
○インド仏跡参拝紀行文(8)
○インド仏跡参拝紀行文(9)
○インド仏跡参拝の旅
まとめ動画
○東日本大震災第三回忌に臨んで(前編)
○東日本大震災第三回忌に臨んで(後編)
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