平成24年4月作成
○インド仏跡参拝紀行文(2)
インド全体図
■2日目(3月4日夕方から3月5日早朝)
デリー観光を終えると、いよいよ旅の目的である仏教の聖地参拝のため、寝台列車に乗ってガヤへ向かいました。
寝台列車は、ニューデリーの駅から出発します。ここは、インドの首都の電車の駅。日本の東京駅や大阪駅のようなものです。大きなビルが建ち並んでいるわけではないですが、人がたくさんいて、何とも言えない活気がありました。
荷物は、ポーターさんが運んでくれます。赤い制服の上着を着ているのが目印です。20kgくらいあるスーツケースを2個も頭に載せて運んでいる人もいました。2個でなくても、とりあえず、みんな頭に載せて運んでいました。インド人独特の華奢な体のどこに力が…。慣れ?バランス?と思いながら見ていました。
駅の雰囲気は下の写真のような感じです。
ここから寝台列車の予約の都合で、2グループに分かれることになりました。しかし、ここで問題発生。自分のスーツケースがないという参加者が…。私のスーツケースもありませんでした。
ポーターさんが、それぞれのグループの人数だけ聞いて、名前を確認せずに、スーツケースを適当に2グループに分けてしまったのです。参加者自体も、荷物のある方に乗るのではなく、勝手にグループ分けされてしまっていたので、荷物が有ろうが無かろうが言われた方に乗り込むという事態になってしまいました。
それぞれのグループの車両は離れていて、ホントに自分の鞄があるかは、目的地に到着するまで確認できませんでした。ここはインド。手元に置いていても盗られてしまうような国。有るか無いかも確認できないままでの、12時間以上の長旅は不安なものとなりました…。
電車の外見は下の写真のような感じです。
どこからでも乗り込めるような一般車両に比べれば余程いい。何しろ一般車両の8倍の運賃ということでしたので。名前は「スーパーエクスプレス」。しかし、「人が多すぎて重いのかな?」と言いたくなる程、ゆっくり走っていました。インド人が日本の新幹線乗ったら「速すぎる!止めて~」と言うのだろうなと一人思っていました(笑)
内装はこんな感じでした。
狭い…。人が一人通れる通路だけを確保し、出来るだけ多くの人を乗せようという設計。実に合理的(笑)快適さというのは二の次のようでした。トイレに関しては触れません(笑)
それでも、1人ずつに毛布とシーツと枕が用意され、1人ずつに寝るスペースがあり、そのスペースはカーテンで区切ることが出来ました。16時半頃出発すると、時間を見計らって乗務員が夕食、夜食、チャイを運んで来てくれました。その点やはり高級車両だったのだと思います。
さらに、ガヤ駅で下車したときに後から到着した一般の寝台列車を見て、8倍の値段していたのだなと実感したのは、窓やらドアやら開けっ放しでみんな体を小さくしてぎゅうぎゅう詰めで乗っていたことでした。寝台列車というより、一晩中走っている普通電車でした。つまり、1人に1つベッドがあるということだけでも相当な贅沢だったということです。
現に私たちが乗った電車にも、一般車両よりは贅沢させてやりたいと、4人で1つのベッドを借りている家族もありました。その家族のお父さんは、家族だけ寝かせて、一晩中寝ずに起きておられました。
私たちが下車するために通路に並んで待っていたとき、そのお父さんと話をすることが出来ました。その会話の中で、私の持っていたカメラの話題になり、いくらと尋ねてきたので答えると、「one life」という感想でした。つくづく私たちは贅沢者だなと感じさせられました。
余談ですが、その会話の中で、どこのメーカーと聞かれたので「SONY」と答えると「korean(韓国製)?」と言われたのには驚きました。確かに、行くホテル行くホテル、置いてあるテレビなどの家電製品は、悉く「サムスン」「LG」などの韓国製でした。しかし、「SONY」を間違えるなんて…。家電好きの私としましては、思わず「頑張れ、日本!!」とエールを送ってしまいました(笑)
閑話休題。贅沢なんだと思いながらも、やはり日本の文化にどっぷり浸かってきた私たちには、厳しい環境でした。バリアフリー、お年寄りに優しい暮らしなどと声高に叫ばれている日本で暮らす私たちには、70代、80代の方に3段ベッドの上段に寝てもらうというのは、もはや「新鮮」に感じられた程でした。
しかし、旅の前半でこのような困難をみんなで乗り切れたのは、大変良かったと思っています。インドという国を肌で感じられたのも良かったのですが、参加者の一体感が強まったのが何より良かったです。互いにシーツを敷くのを手伝い合い、荷物の見張りをし、少しでも元気な人が最上段で寝て、ベッドによじ登るときには支え合い、不安な気持ちを励まし合う。
振り返れば、ホントにいい経験が出来たと思います。親に携帯電話を与えられ遊びほうけている高校生やディズニーランドで成人式を迎えてはしゃいでいる若人には、是非インドに来てもらいたいと思いました。
ところで、はじめに問題となった大きな荷物の件ですが、その後も不安は続きました。自分の荷物を把握できないだけでなく、我々のグループの荷物すらどこにあるのか分からない状態になりました。というのも、上の写真からも分かるように、荷物を置くスペースが設けられているわけではありません。全てベッドの下のスペースに入れます。しかも、そのスペースも限られているので、自分たちが寝るベッドの下だけでなく、空いている所ならどこでも…。そこには鍵も掛けられません。つまり、寝ているときに勝手に参加者の誰かの荷物を持って降りられてても把握のしようがないのです。考えれば考えるほど不安でした…。
しかし、開き直ったからなのか、2日目にして既に疲れが出始めたからなのか、何とも言えない心地良い電車の揺れに、不安も忘れ、手荷物や貴重品に占領されて更に狭くなったベッドであることも忘れ、しっかり眠ってしまいました。
朝4時起床。4時20分ガヤ駅着ということで、早めに起きて下車の準備をしました。まずは、手荷物・貴重品の確認です。寝ている間に盗られていないか…。お陰様で、全員何も盗られずに済みました。これはインドではなかなかすごいことだと思います。今から考えると、先ほどのお父さんが起きててくれたお陰なのかなと思います。見張りのつもりではなかったにしろ、十分に泥棒には牽制になったのだと。
それから、ランダムにベッドの下に仕舞われたスーツケースの数合わせ。旅行会社のシールだけを目印に電車のドア付近に並べていきました。
もう一つのグループとは添乗員さんが携帯電話でやり取りをし、スーツケースの合計数を合わせました。添乗員さんの鞄は個数に含めているの?とか、シールを貼っていない、はがれた参加者の鞄はないの?とか、ホントに降りるまで不安でした。
電車は、ほぼ予定通り、5時過ぎに到着しました(笑)5、6時間遅れるのが当たり前のインドでは、遅れた内に入らないのです。これで次の目的地にはホントに予定通り着きましたので、初めから1時間の遅れは完全に計算されていたことになります。じゃあ、到着予定時間を5時にしておけばいいのでは?と思ったのは私だけではないはずです…(笑)
下車してすぐにしたことは、スーツケースの確認です。何と、奇跡的に全ての荷物がありました!!当然といえば当然ですが、インドで、あの環境下で全てあったというのは奇跡と呼んでも過言ではないと思います。一安心。ホントに「ふーっ」でした。それからのホテルまでのバス移動は安心して眠れました。
■3日目(3月5日早朝から)
12時間電車に揺られて降り立った地、ガヤ。ここは昨日までいたインドの首都、デリーとはだいぶ違う光景が広がっていました。一言でいうと田舎です。最近では、インド人の都会っ子も行きたがらないという程の…。駅には多くの人が暮らしていて、私はマスクと鼻炎に助けられていたものの、においもだいぶきつかったようです。この辺りから行く前に想像していたようなインドに近付いてきました。
下の写真はガヤのポーターさんが平気で線路を歩いているところ。電車がめったに来ないからだと思います。そのためか、線路と線路の間にあるちょっとした安全柵にまで、早朝から、駅で暮らすお婆さんが洗濯物を干していました…。
続いては、お馴染みのバスの屋根の上に乗るインド人。ちなみに私たちのバスの中には、たくさんの蚊が乗っていました。バスのドアくらい閉めといてよ(笑)!!インドでは不殺生戒がしっかり守られているので、蚊をたたいてはいけません…。蚊取り線香とムヒにすごく救われました。
麦畑の間を縫って、バスはさらに田舎であるラージギルへ向かいました。天気は快晴で、空気は街に比べだいぶ澄んでいたと思います。
そして、ようやくラージギルでの宿泊地「法華ホテル」に着いたのは、デリーを出て16時間後のことでした。ラージギルというインドでも田舎の町(今回の旅でもっとも治安が悪いと指摘されていた町)によくこんな建物建てられたなと驚く程、立派な、感じのいいホテルでした。名前から分かるように、このホテルは、仏教の聖地にお参りする人達のため、日本人の日蓮宗の信者さんが建てたホテルです。
ここでは、日本料理の朝食をいただけました。3日目にして、おかゆとお味噌汁の懐かしさに感動しました。味噌と醤油は日本人の命です!!
朝食を済ませると、ようやく旅の目的の開始です。まずは、ナーランダー仏教大学跡に行きました。
ここは紀元後427年に建てられた世界最古の大学・研究機関で、広大なキャンパスには10000人の学生、1500人の先生が居住しながら研究をされていたそうです。中国の玄奘三蔵もここへ来て学ばれています。1193年、イスラム勢力により施設は焼き払われてしまい、図書館にあった多くの本が何年も燃え続けたそうです。
遺跡の発掘が進み、焼け残ったレンガの跡を見学することができます。見渡す限り同じような光景が続いていたのですが、見えるのは一部でもっと埋もれているとのことでした。しかし、掘っても同じ物しか出てこないだろうということでもう掘らないと言っていました。何ともインド人らしい(笑)
下の写真は、お釈迦様の10人の重要なお弟子様の中で、「智慧第一」と称された「舎利弗(シャーリプトラ)尊者」のお墓です。お墓というより何かの建物のように見えるかもしれませんが、コラム「塔婆について」でも少し触れたように、インドでは亡き偉人を供養するためにこのような「塔」を建てました。といより、この「塔」が場所と時代の変遷を経て、現在日本で見られる「お墓」になっています。
しばらく進んでいくと映画の撮影が行われていました。インドは映画大国で、多くのインド人にとって最大の娯楽になっています。
ガイドさんが仕事を忘れて、映画女優の野次馬に行っていました。有名な俳優と女優だったそうですが、個人的には趣味が合いませんでした(笑)
ナーランダーからラージギルへの帰り道、小さな町に立ち寄り、蜂蜜を塗った揚げ菓子を買いました。インドでは定番のお菓子でそこかしこで売っていました。買い食いはお腹を壊す元なので控えていましたが、新鮮な油を使っているか、揚げたてかなどを添乗員さんに確認してもらったうえでしたので、1つ頂きました。
久々の甘い物。ポロポロ形が崩れ、外でしか食べられないような物でしたが、見た目以上に美味しいお菓子でした。
それから、ホテルに戻って昼食。日本料理に癒された後、朝の電車の疲れを癒すため、しばらくお昼寝タイムを取りました。が、あまりの気持ちよさに何と寝坊してしまいました(汗)こんな事は滅多にないのですが、余程疲れていたのかアラームにも気付かず、別の青年会スタッフに起こしに来てもらうということになってしまいました。疲れていたとはいえ、参加者はだいたい時間通りに集合されていたことを思うと、反省…。
気を取り直して、ホテルからバスで10分程の竹林精舎へ向かいました。この時、添乗員さんの計らいでロバを用意してもらいました。バスですぐの距離でしたが、パカパカと蹄の音を聞きながら、快晴の空の下、風を切って移動できたのは、なかなか優雅で、感動的な思い出になりました。この時、なぜか「今インドにいますッ!!」と叫びたくなりました(笑)
そもそも、ラージギルがどういう場所かといいますと、お釈迦様御在世の頃、マガダ国の首都「王舎城(ラージャグリハ)」があった町です。お釈迦様が悟りを開かれた後、もっとも長く滞在され、多くの説法をされた場所です。
そして、訪れた竹林精舎とは、お釈迦様がラージギルという地に滞在される拠点となった、最初に建てられた寺院のあった場所です。竹が生えているのでそのように呼ばれます。この寺院は、マガダ国のビンビサーラ王によって建立されたといわれていますが、今では建物は無くなっています。
この地は、仏教徒にとって大変重要な地ですので、八大聖地の1つにあげられます。しかし、インドで仏教が衰退しはじめる頃から、どんどん荒廃が進み、初めに述べましたように、いまだにインドでも田舎で、治安があまり良くありません。20世紀の中頃から、この地の重要性が見直され、多くの人たちの努力により、宿泊施設ができるなど少しずつ発展はしてきましたが、やはりまだまだです。
そのためか、この地域には、デリーと比べると、多くの「物乞い」がいました。インドではカーストの関係で、「物乞い」の身分があります。言うなれば、プロの「物乞い」がいます。そして、「バクシーシ(施し)」という思想がありますので、「貧しい者には施す」、それによって富める者は徳を積むことができると考えられています。
だから、私たちがインドで物乞いに施すことは、本来、当然なのですが、近頃は状況が変わってきたようです。
施される方がたかるようになり、またそのカーストでない者(憲法上はカースト制度は廃止されていますが、この制度は根強く残っています。)が手を出すようになってきているようなのです。
そして、貧しいとはいえ、食べ物は豊富に摂れるようなので、お金だけを欲しがります。
また、よくその観察をしていると、手を出してくるのは、教育を受けていない地域の5,6歳くらいまでの子供と老人だけでした。間の世代は、みな農業なりで働いているようなのです。つまり、少し言い方が悪いですが、働けない世代が小遣い稼ぎに手を出しているように見えるのです。
本物の物乞いか疑わしいと決定的だったのは、私たちのような団体の観光客には群がっていくのに、個人の観光客には見向きもしなかったことでした。
それに、その本物でない物乞い(特に子供たち)への施しは、教育を受けられる環境があったとしても、勉強しなくなるという事態を招いているそうです。教育環境はまだまだ悪いですが、勉強しなくても手を出したらお金をもらえることを知って、初等教育の子供たちが勉強をするでしょうか。
以上のことから、添乗員さんの指示もあり、「施し」はしませんでした。
帰国してから、インドに詳しい方にお話を聞くと、もっとよく観察していると、本物の「物乞い」かどうかが分かるということでしたが、なかなか難しかったと思います。みな悲壮な顔をして、私は本物だと言わんばかりに、手を出してきますので。「施し」をさせてもらいたいという気持ちにはなりますが、インド初心者は、あげないと決めておく方が無難だと思いす。
それから多宝山にあります仏舎利塔にお参りしました。この仏舎利塔は、日本山妙法寺という日蓮宗系の一派によって建立されました。
一人乗りのリフトに乗って向かいます。聞けば、このリフトは日本製。安心して乗ることが出来ました(笑)参加者の中には、高所恐怖症の方もおれましたが、無事に皆でたどり着けました。
インドに御題目、御曼荼羅の塔。何とも感慨深いものがありました。
みんなでお経をあげさせて頂きました。
奥に本堂がありましたが、リフトの終わる時間が迫ってきていましたので、青年会スタッフの一部だけで挨拶に行ってきました。このお山の守りをされているのは日本人のお坊さんです。日々の法務に感謝を告げて参りました。
ここから、翌日お参りする霊鷲山の礼拝場が見えたそうですが、残念ながら気付きませんでした…。
下の写真は、再びリフトに乗って下山しているところの写真です。
広い森林地帯の中に、ポツンとこの聖地だけがあるというのが印象的でした。夕方だったからかもしれませんが、聖地にも関わらず訪れる人が思った以上に少なく、少し寂しい感じも受けました。
日が陰ってきた所で、本日最後に訪れたのがビンビサーラ王の幽閉跡でした。
説明しないとただの広場ですね(笑)
この地は、先ほど竹林精舎のところに出てきましたマガダ国のビンビサーラ王とその子、アジャータシャトル(阿闍世)王子にまつわる場所です。この2人のお話は、それだけで1つの経典がある程長いので、かいつまんで説明します。
ビンビサーラ王には子供がいませんでした。そこで、一祖師に聞いてみると、ある仙人が生まれ変わったら子供を授かるということでした。しかし、王はその仙人の死を待てず、見つけて殺してしまいます。その仙人は、必ず生まれ変わったら怨んでやると言って亡くなりました。
その後、王には予言通り、子供、アジャータシャトル王子が生まれますが、怨まれることを恐れ、王は王子を殺そうと試みます。しかし、王子は軽傷ですみ死にませんでした。
王子が大きくなったとき、お釈迦様の教団に反逆する提婆達多に、王が王子を怨み行った数々の所業を聞かされ、王を幽閉するようにそそのかされてしまいます。
そして、我が父王を幽閉してしまった場所が上の写真の広場です。その後、アジャータシャトルは自ら王の座に就きます。
餓死させようと元王に食事を与えていなかったにも関わらず、なかなか死なないことを疑問に思ったアジャータシャトル王は、面会と称して自分の体に蜜を塗って食事を与え続けていた母の存在に気付き、その母までも幽閉してしまいます。
しばらくしたある日、アジャータシャトル王の子供に「膿」ができます。王は、その「膿」を吸い取り子を救いました。そのシーンを目撃した母が「あなたの父ビンビサーラ王もあなたが子供のときに同じようになさったのよ。」と涙ながらに話すのを聞いたアジャータシャトル王は、父の優しさに気付きます。「今まで何とひどいことをしていたのだ」と父を幽閉しているこの地に向かいますが、時既に遅し、父王は子供に殺されるわけにはいかないと、舌を噛んで自害したところでした。父王のこの行動は、子供に親殺しの罪を犯させないためのものでした。
父の優しさに気付かなかったアジャータシャトル王は、その後、嘆き苦しみ、発熱、体に斑点ができる症状におそわれます。
提婆達多や他の色々な人に診てもらいますが治りません。最後に、お釈迦様に相談すると、その病がたちまち治ってしまいました。
その後、王子はお釈迦様、仏教教団を外護するようになったと言われています。
…だいぶ省いていますが、悲劇の家族のお話の舞台であることが分かって頂ければいいと思います。
この地で写真撮影。かなり小さくですが、後ろの山に、多宝山の仏舎利塔が写っているのが分かるでしょうか?
このラージギルは、物乞いだけでなく、かなりしつこく付いてくる「お土産屋さん」も多くいます。私たちのバスをバイクで追いかけ、次の目的地に降り立つ頃にはお土産を持って待機しています。日本語もペラペラで、一生懸命頑張っているので、一緒に写真を撮りました(笑)前に写っている人達がお土産屋さんです!
もう暗くなった頃、ホテルに到着。お風呂に入って夕食になりました。そう、このホテルには、日本と同じ大浴場があります。私は忙しくて入れなかったのですが、日本を離れて3日目にして何もかも懐かしく感じていました。ちなみに、インド人はお風呂に入らないので、湯加減が分からず、とてもゆっくりつかれる熱さではなかったそうです…(笑)
ホテルに帰ってお風呂に入れない程なぜ忙しかったかと言いますと、色々他にもありましたが、ホテルで法要をしていました。このホテルは、日蓮宗の信者さんが建てられたホテル。ホテルに立派な御内佛があります。ここで青年会一同で夕勤をしておりました。とても長い一日だったので、お勤めをすることで心が落ち着きました。
夕食も、インド料理と日本料理を選べましたが、後のことを考えて日本料理を頂きました。
これで一応3日目の日程は終わりだったのですが、有志だけでインドの温泉に21時頃から出かけていきました。お風呂もお酒も入った夕食後にも関わらず、半数以上の参加者で行きました。みなさん、ホントにお元気でした。
ラージギルは、北インドでは珍しく温泉が涌いている地方です。しかし、温泉といっても日本のようにゆっくりつかって体を洗うような場所ではありません。ヒンドゥー教徒の沐浴場(穢れを洗い流す場所)になっていて、男女混浴で服を着て入ります。温水プールのイメージの方が近いかもしれません。
名前は、温泉精舎です。治安が悪いと聞いていたので、バスから降りるとまとまって目的地まで歩いていきました。
写真のような所で、男性は下着一枚になりました。女性には更衣室があり、肌を見せてはいけないという戒律からホテルでお借りした浴衣をみなさん羽織られていました。
そして、暗くて滑りやすい階段を下りた所に、源泉掛け流しの小さな温泉がありました。
深さは、身長175センチの私の胸くらいでした。いい湯加減で、ずっとつかっていられるほどの温かさで大変気持ち良かったです。沐浴場なので、洗ったりするところはありません。一般人はただつかるだけということになります。
思っていたほどは汚くもなく、臭いもなく、普通に入れました。源泉掛け流しで、どんどん新しいお湯が涌いてくるので、汚さを感じなかったのだと思います。底には小さな砂利が敷いてありました。
あがって体を拭いて帰ろうとすると、そこを管理している(?)おじさんに、ヒンドゥー教徒の証として額に赤い粉を付けられました。ヒンドゥー教徒ではないのですが…。いい記念になりました。
帰り道、皆さん足を止めて見ておられたので、何かなと見てみると、屋外で体を洗っている(沐浴?)インド人の方がいました。聞いてみると、カーストの関係で、あの人はこの下の方の温泉に入っているとのことでした。この温泉精舎は、一番上で涌いたお湯が下に全て流れて行っていて、ヒンドゥー教徒はそれぞれのカーストに応じて入る場所が決まっていたのです。一般人はアウトカーストなので、一番上に入らせてもらえるのだそうです。何とも厳しい制度です。
翌日は、早朝より、今回の旅の最大の目的、お釈迦様への報恩感謝を伝える霊鷲山での法要です。ホテルに帰ると翌日の準備をして、英気を養うため、すぐに休みました。
>> 続く >>
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○塔婆について
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まとめ動画
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○東日本大震災第三回忌に臨んで(後編)
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