平成25年3月作成
○東日本大震災第三回忌に臨んで(前編)
■はじめに
東日本大震災直後の5月、ボランティアと追悼に現地を訪れ、そのボランティアセンターで「また来ます」と言ったきり、この2年間、一度も行けずにおりました。
震災から1年の昨年3月11日は、インドに行っていたため現地に赴くことができず、なかなかきっかけを見つけられないまま、2年が経とうとしていました。
そんな中、第三回忌には何とか現地に赴きたいという思いが強まった頃、あるご縁を頂き、京都の僧侶仲間と共に行く機会に恵まれたのでした。
今回のコラムは、3月9日~12日の4日間に渡って東北を訪れた時の記録です。次回、訪れる際の自分にとっての資料としてもここに書き留めておこうと思います。
■出発前
当初、3月11日の第三回忌法要の出仕並びに各所の行脚と追悼のみを考えていたのですが、せっかく行くのに時間を無駄にはできないと厳しい日程でしたが、ボランティアもさせていただくことにしました。
現在、瓦礫の撤去や泥かきなどの作業は、一部の地域を除いて終わってきたようで、ボランティアは登録制になっている場合がほとんどになりました。センターからの要請を受けて、可能ならばお手伝いにいくというスタイルです。そのため、遠くに住む者にとってはなかなか行きにくくなりました。
ただ、まだ常時ボランティアを受けている地域もあります。つまり、被災の程度が甚だしかった地域ということです。それは岩手県から宮城県にかけての三陸海岸沿いの地域です。今回は、色々と調べて、南三陸町に行くことにしました。
※災害派遣等従事車両証明書
そういった地域にボランティアに行く際は、災害派遣等従事車両証明書を発行してもらうことによって、高速道路の利用料金を無償化してもらえます。点々といくつかの場所を訪れる予定をしていたので自家用車で行くことにしていました。そこで、今回もこの制度を利用させていただきました。
証明書が発行される役所、申請方法は各ボランティアセンターのホームページをご覧下さい。発行される地域、時期には制限がありますので、注意が必要です。ちなみに、宮城県の各被災地域に行くための証明書の発行は、平成25年3月31日で終了しました。延長される場合もありますので、一応こちらでご確認下さい。
※ボランティア保険
東北に限らず、どこにボランティアに行く際も、ボランティア保険の加入が必要になります。お住まいの地域の社会福祉協議会などで加入することができます。京都の方は、こちらをご覧下さい。
■出発
9日から4日間全日お寺を空けることは困難であったため、9日の夕方、一緒に行くメンバー皆が法務を終えてから出発という厳しい日程になりました。今回は3人で行けましたので、交代して運転することで移動の時間ロスを減らす予定でした。
午後4時半出発。休憩しつつですが13時間というドライブが始まりました。
片道900kmを越える道のりです。東京まで行って約半分。日本は長い国だと改めて思うとともに、東北との"距離"を感じました。どれだけ思いを巡らそうとも、イメージできない、やはり他人事となってしまっている距離感を。
新名神、新東名、首都高速を通り過ぎ、東北道を上って、三陸道を走り抜け、無事、目的地の南三陸町ボランティアセンターに午前5時50分に到着しました。地下まで使って、都内を蜘蛛の巣のように張り巡らされた首都高速を走っているときには、直下型地震の恐怖を感じました。前回訪れたときのように、東北道を走る自衛隊や警察などの車両はあまり見かけませんでした。道路の整備もほとんど終わっているようでした。
■ボランティア
南三陸町を目指して、ちょうど明け方、内陸から海岸に向かって川の横を走っていると、徐々に津波の跡が左右に広がっていくのが分かりました。だいぶ内陸の方から、道路の両脇にある小高い山の半分の高さくらいまですっかり削られていました。津波の規模に言葉を失いました。
瓦礫の片付けはほぼ終わっているように見えましたが、雑草がまだ生えていないところからようやく終わったのだということが分かり、その被害の大きさを感じました。所々に残る鉄筋の建物跡。震災の年の7月にもこの地を訪れていたお上人は、鉄筋の建物もだいぶ撤去されたと仰っていました。
交代しながらとは言え、やはり車中ではゆっくり寝られるものではなく、到着後、ボランティアセンターの駐車場にて1時間仮眠を取りました。その場所には、車中泊でボランティアに来られている方の車が数台停まっていました。
7時から朝ご飯と着替えをして8時半からのボランティアに備えました。この場所は山の上にあり、津波の被害はなかったところで、近くにはまだ建って間もない24時間営業のコンビニがありました。コンビニは、海岸近くの、まだ周りに何もない場所にも、プレハブで経営していて、私たちにおけるコンビニの必要性とそれに応える企業の凄さに今の時代を感じました。
8時半から受付が始まり、ボランティアバスで来られるような団体には泥かきの仕事が、少人数のグループには漁業支援(漁師さんのお手伝い)の仕事が割り当てられていきました。
私たちは、三陸ワカメの出荷のお手伝いをすることになりました。自家用車で現場の仕事場まで移動。挨拶して作業を開始しました。
一度ゆでて、塩をまぶして、プレスして水を切ると、ワカメが絡まってしまいます。その絡まりあったワカメを次の作業がしやすいようにほぐして、一本ずつ抜き出し、並べていくという作業が私たちの仕事でした。次の作業は港のおじさん・おばさんが行い、ワカメの芯と葉(?)をカッターで切り離しておられました。芯は柴漬けに使われ、葉(?)がカットワカメなどになるとのことでした。
自分たちの作業は単純作業だったので、お話しながらできました。こちらから当時の事を聞くのは失礼かと思っていたのですが、京都から来た僧侶であることを伝えると、おじさん・おばさんの方から当時の様子や現状をお話しして下さいました。気を遣わしてしまったのかもしれませんが…。
海水の引きが異常に大きかったという話。津波は何度も来て、川を伝って後ろからも来たという話。道路が遮断され、農道しか使えない状況となり、停電し情報がなく、自分たちの所だけがこのような被害に遭っていると思っていたという話。7日目に一部の携帯が繋がりだし、ようやく娘の安否を知り、電気が来るまでには50日もかかったという話。トイレが一番大変で、畑に穴をいくつも掘り、プライバシーを守る方法も工夫しながらしのいでいたという話。そして、若い子達が道無き山を越えて、「お米を下さい」と隣の町までもらいに行ってくれたという話etc.
灯油が無く、木を燃やして暖を取っていたその暖炉を囲んで、コーヒー休憩をさせてもらいました。休憩中も色々な話をしました。
今は4軒が一組となって漁業の補助金を申請し、それをもらって仕事をしている。平成24年から3年間の制度で、その後独立し、以前と同じように1軒で仕事を始める。機械などは6分の1の値段で調達できる(残りは国の負担)が、それでも現金では手に入れにくい金額なので借金は借金。国から給料をもらっているという状態で、売れても売れなくても固定給。頑張ったら儲かるという状況ではない。風評被害などで売れなくても安定してもらえるとも言える。というような仕事の話。政策に対する疑問、官僚の方々も一度ここに来て一緒に働いてみるといいという話などなど。
この話をされる口調から、仕事へのモチベーションが保ちにくい状況にあることを感じました。そして、ここにこそボランティアに行く必要性があるのではと感じました。娘さん達は仙台などで働いているそうで、若い人が来るのは珍しいと仰っていました。仕事場が明るくなったと喜んでおられました。仕事は漁業の支援ですが、"傾聴"のボランティアとも言えるのだと思いました。
■余談
このボランティアは、私たち3人ともう一人若い学生さんとが一緒のグループになって行いました。
まだ二十歳の早稲田大学の学生さんSくん。震災直後から、長期の休みになればボランティアに訪れ、もう何度も来ているとのことでした。
今回も春休みを利用して、一週間弱の予定で来たそうですが、その方法が凄い!一人で、センター近くの公園でテントと寝袋で過ごし、毎朝ボランティアにやってくるとのことでした。恐れ入りましたm(_ _)m
昼休みにゆっくり話をすることができました。国防に関心を持っているそうで自衛隊の話やその他様々な話をしました。知識も豊富で話していて大変面白かったです。こういう若者がいることに感激しました。そして、ボランティアに行くと、こういう方と出会える可能性が高いことも嬉しく思いました。単位になるからとか、学校から集団で連れてこられたからとかではなくて、まさに自らの意思で、進んでボランティアをしている。同じ方向を向いている人たちと時間を過ごすのは非常に気持ちよく、清々しかったです。
こういった出会いもボランティアの魅力だと思います。
■前編まとめ
当日は、晴れていたにも関わらず、仕事場が吹き飛ばされるのではないかと心配になるほどの暴風が吹き荒れる一日でした。作業は屋内でしたが、ボランティアが終わる午後4時頃からは気温も下がりはじめ、暴風の中、車の外での着替えはなかなか厳しいものでした。
宿泊先の仙台市へ向かう途中、あまりに砂塵、暴風がひどく車が横転するのではと不安になっていたら、しっかり暴風警報が発令されていました。
仙台市に向かう前、南三陸町の港の近くで一度車を停めました。360度すべて流されてしまったその場所で、追悼のお経をあげさせていただきました。結局、どこに向かって手を合わせるべきなのか分からず、そこら中に意識を巡らして拝みました。
水が使えるようになり、電柱は海のそばまで立って、電線はそこまで伸びていました。漁港が動き始め、コンビニやスーパーが再開し、早朝散歩している人を見かけ、学生さんは慌てて学校に向かっていました。
復興を感じる一方で、区画整理もままならず、瓦礫の撤去だけが終わり、更地になったままの町。高台は少なく、地価は高騰しているとのことでした。この2年、元に戻ろうとするスピードは、結局速いのか遅いのかよく分からなかったですが、とにかく「まだまだだ」と感じました。
また、今回意識を改めなければと思ったのは、漠然と東北地方が一様に被害に遭ったと思っていたことです。皆が同じ苦しみを持っていると思っていたことです。被害の状況、規模は被災地によって様々で、被災者もそれぞれの立場によって様々な悩みを抱えておられます。当たり前のことなのですが…。
外国の方が日本全土がやられたと思っていたのと同じように、東北から遠く離れた関西に住む者だからこそ、「一様の被害」をイメージしていたのだと思います。反省。
原発問題などは、テレビなど情報を得る手段が無かったので、当時はしばらく知らなかったし、知り得なかったそうです。しかし、今回でも一度も話題になりませんでした。不安をあおらないように、目を背けておくように、企業が、メディアがしむけているだけかもしれませんが、知ろうともされていないのではないかと思いました。今、自分たちの生活を復興させるだけでも精一杯で、将来の原発問題など考えている余裕はないと。
明日は我が身。自然災害など、いつ私たちに降り注いでもおかしくない問題です。だからこそ、今、被害に遭っていない者が、まだ考える余裕のある者が、考えなければならない問題があると強く思いました。
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○お墓について①
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○インド仏跡参拝紀行文(8)
○インド仏跡参拝紀行文(9)
○インド仏跡参拝の旅
まとめ動画
○東日本大震災第三回忌に臨んで(前編)
○東日本大震災第三回忌に臨んで(後編)
長唱山大立寺(だいりゅうじ)
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