日蓮宗長唱山大立寺
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コラム


平成25年4月作成

○東日本大震災第三回忌に臨んで(後編)


■はじめに

 このコラムは「東日本大震災第三回忌に臨んで」の後編です。まだ前編を読まれていない方は、まずはそちらから読まれることをお勧めします。


■第三回忌当日

 3月11日。あの東日本大震災から丸2年を迎えた第三回忌当日。宿泊先の仙台市には、うっすらと雪が積もっていました。

 午前7時半、法要が行われる石巻市へ出発。大渋滞に巻き込まれ、集合時間ぎりぎりの10時前にようやく一つ目の目的地、日和山公園に到着しました。ここで、今回の法要等の段取りをして下さいました神奈川のお上人方と合流しました。
 この公園は、震災当日、皆さんが津波から避難し、そして津波に呑み込まれていく町を見ていた場所です。この場所からは石巻の被災地域を一望することができました。この場所で、まず一読させていただきました。



 川上(↑)と川下(海側)(↓)でだいぶ様子が違っていました。川上の中州には、石ノ森章太郎の漫画館(白い卵形の建物)があるのが見えました。



 その後、山を下って、だいぶ瓦礫が片付けられた町の中へ。津波の高さを象徴するような、今は廃墟となっている門脇小学校がすぐ目に止まりました。校内にいた児童は皆、日和山に避難して無事だったそうですが、他の多くの方が小高いところに建っているこの小学校まで避難しようとして亡くなられたそうです。



 この町中をわずかな時間でしたが、鎮魂の祈りを込めて、団扇太鼓を叩いて唱題行脚させていただきました。春の荒らしのような暴風に煽られながら。

 それから、第三回忌法要が営まれる日蓮宗法音寺様へ。30メートル程山を登ったところにありました。津波の被害が無かったため、近隣の一時避難所となり、当時は100人程で避難生活をされていたそうです。

 法要の打合せの後、避難場所となっていた庫裡で昼食をご馳走になりました。それから準備を整え、東日本大震災第三回忌物故者慰霊法要に式衆として出仕させていただきました。約150人の被災者家族の方々がお参りされている中での合同三回忌法要でした。



 当日は、日本だけでなく世界の至る所で手を合わされたと思います。どの場所であっても、この地に思いを巡らせ手を合わせることが、そして忘れずにいることが、何よりの供養であったと思います。



 どこまでいっても他者は他者ですが、ボランティアをし、この地で手を合わせることで、少しでもこの震災を身近に感じ、思いを共にできたのではないかと、私自身は思っています。この経験を通して、私自身も変わり、これからの活動に繋げていければとも思いました。


■慰霊塔開眼法要

 そもそも今回、東北を訪れることにしたのは、神奈川のお上人が始めた一つの事業がきっかけでした。
 それは、石巻での慰霊塔建立事業。その勧募に協力し、慰霊塔の開眼法要の案内を頂いたことがご縁となって、ボランティアや法音寺様での法要などに繋がっていったのでした。

 第三回忌法要後すぐに、今回のきっかけとなった慰霊塔へ移動。
 墓地がないためか、身寄りがないためか、いまだに納骨されていないご遺骨があるとのことで、この慰霊塔は「慰霊」のためだけでなく、「合祀埋葬」も目的として建てられました。この塔の下にご遺骨が納められるようになっているそうです。



 「久遠の祈り」と彫られたこの慰霊塔は、合掌をイメージしたデザインだそうです。
 奥に建っている題目碑は、元からこの場所にあった物ですが、津波で流されていました。



 空は晴れ渡っているのに、暴風は止むことなく、気温も下がっていました。良い天候とは言えない屋外での法要でしたが、非常に丁重な式が営まれました。
 唱題の後、震災の発生した午後2時46分、そこかしこでサイレンの鳴る中、黙祷を捧げました。
 そして、法音寺のご住職により、この慰霊塔開眼の奉告文が読まれ、回向が行われました。





 気温は3度。暴風により体感温度は氷点下と感じるほどの寒い中、第三回忌法要に続いて多くの参拝者に見守れながら、無事、式が終わりました。







 着替えを済ませ法音寺様を出発しましたが、午前中、唱題行脚をわずかな時間しか行えなかったので、改めて同じ場所で行うことにしました。夕日が沈み始め、一段と寒さが増し、人もまばらになってくる中、約1時間、更地となり草むらとなりつつある町中を唱題行脚致しました。



 行脚を終え、車を停めていた場所に戻ってきた時、一人の女性がこちらに来られました。その女性は、今日、震災後初めてこの地を訪れることができましたと仰り、私たちにお菓子を布施して帰っていかれました。ゆっくりお話することはできませんでしたが、「受け止める」にはまだまだ多くの時間が必要なのだとつくづく感じました。


■3月12日

 京都に帰る朝は、午前4時起床。
 せっかく東北まで来たのだから出来るだけ多く供養をして帰りたいと思い、仙台市からほど近い名取市閖上(ゆりあげ)地区に赴きました。
 辺り一面、更地になっていて、人は見かけませんでしたが、海沿いの工場が再開し、自動販売機が動いているという場所でした。





 氷点下4度まで冷え込んだ午前5時半。日の出とともに、ここでも約1時間、唱題行脚を行いました。寒さで手がしびれていましたが、震災翌日もこうであったかと思うと、寒いと思ってしまった自分が恥ずかしくなってしまいました。電気もガスも無い避難所で過ごされた被災者、さらには津波に流されるも助かって屋根の上で救助を待たれていた被災者…。その過酷さは想像を絶するものだったと思います。

 小高い場所に、昨日多くの方が、お供えをし、手を合わされていた跡が残っていました。私たちもこの場所に立ち寄って、地平線から昇ってくる太陽を仰ぎ見ながら追悼供養を行いました。



 石巻もそうだったのですが、この地にもたくさんの雑草が生えていました。まだあまり生えていなかった南三陸町とは対照的でした。瓦礫の片付けなどはだいぶ前に終わっているにも関わらず、どのように町を作っていくのかが決定できなくて、復興が止まっている状態なのだと思います。何が原因と簡単には言えませんが、とにかく町の再生にはまだまだ多くの時間がかかることはよく分かりました。




■身延

 午前6時半過ぎ、東北の地を離れて、山梨県の身延山へ向けて出発。東京を通り過ぎ、身延山大学に到着したのは午後4時でした。
 この大学の工房では、現在、陸前高田市に奉納される木造の「悲母観音像」が制作されています。その完成までの過程を拝見するのが今回訪れた目的でした。



 この観音様は、被災地の慰霊を目的として造られています。寄せ木造りの木像の内側には、多くのメッセージを確認することができました。



 また、「一鑿(のみ)運動」といって、粗彫りの状態の時に、全国各地に運ばれ、多くの方々に一度ずつ鑿(のみ)を入れてもらうという活動も行われました。そして、お顔の部分には多くの写経が納められています。



 訪れた時には、下地として虫除けの漆が何度も塗られていたため、このような色をされていましたが、この後、白く塗られ、彩色が施されていくとのことでした。皆の祈りの詰まったこの観音様は5月に開眼される予定です。

 開眼の後は、被災各地で行われる慰霊法要等に"貸し出される"ことになっています。トラックで運べる大きさに調整されたこの観音様は、"出張"観音様となって、祈る対象の無い被災地にいつでも勧請されることになるそうです。

 そもそも、観音様は、私たち一人一人に合わせて姿を変えて出現し、私たちをお救い下さる菩薩様です。この観音様も、そのフットワークの軽さによって、多くの被災者に安心(あんじん)を与えて下さることでしょう。

 また、観音様は私たち自らが目指すべき存在でもあります。詳しい説明は省きますが、観音様にすがるだけでなく、私たち自身が観音様のように振る舞えるよう努めれば、世界はより良い方向に変わっていきます。一人でも多くの人たちがそのように努めれば、被災地もより早く、より良い形で復興していくはずなのです。

 なお、この観音様に続いて、今後、別のお姿の観音様が宮城県、福島県に1体ずつ奉納されていくとのことでした。





 見学の後、日蓮聖人の御廟所(お墓)にお参りをし、今回の旅の円成報告と震災物故者への回向、被災地復興の祈願をさせていただきました。



 ここは日蓮宗の総本山のお山。お経をあげながら、何か色々とリセットできたようで、今後の活動に気持ち新たに臨めるような感覚を得られました。厳しい日程でしたが、旅の最後に訪れることができ、大変有り難かく思いました。

□余談
 身延山大学は現在、少子化とも相まって生徒がかなり減少しているそうです。
 仏像に関する技術を備え、学生時代から、仏像の制作、修理に直に関われるのは日本でこの大学だけなのですが、なかなか知られていないというのが現状だそうです。
 もっとこういうことに興味を持った学生に大学を知ってもらい、多くの学生に入学してもらいたいと、今回お世話になった教授は仰っていました。
 ご興味のある方は是非、身延山大学のホームページをご覧下さい。


■終わりに

 今回、再び東北を訪れて、「まだまだ震災は"進行形"であることを忘れてはいけない。」と思い知らされました。これは現場に行かないとはっきり感じることの出来ない感覚だと思います。京都からあまり外に出ない私は、心のどこかで「もう終わったこと」にしていたのではないかと思います。

 とはいえ、どれだけ近くに行っても当事者にはなれません。どんなにイメージしても"他人事"です。申し訳なく、悲しく思いますが、これが事実。この「震災」に対して、被災してない者ができることは、忘れないこと、"できるだけ"思いを巡らすことだけです。

 そして、矛盾するようですが、可能な限り、自分のことと受け止めて、自然災害への備えをし、エネルギー・食・経済・コミュニティ等々の問題について考え、生きていかなければならないと改めて思いました。


◆追記

 先日、別の機会に福井県を訪れました。近くに敦賀原発がありましたので、思い切って訪れることにしました。
 当然、発電所には入れないのですが、原子力発電を紹介する施設が併設されていたので、そこに行くことにしました。



 パネルが外されている所もいくつかありましたが、どれだけ"素晴らしい"エネルギーであるかが分かりやすく説明されていました。私自身、このエネルギーについてはまだまだ知識が乏しいですが、あるフィルターをかけて説明を眺めるとなかなか興味深い内容でした。



 色々な情報が飛び交い、色々な人たちの思惑がうごめいています。人類が目指しているところ、人間とは何か。世界の構成は、世界にとって何が最善で、可能なのか。仏教徒しての答えを導き出して、実現に向け行動していくことはできるのか。壮大なテーマが目の前に積まれていくように感じ、少しひるんでしまいそうでしたが、望むところだという思いも湧き上がってきました。

 私は、ある程度の現実的な目標も定めず、それらしいことを言いっ放しにすることは、宗教者として無責任だと思っています。この施設を見学し、自動車で通り過ぎていく原発関連一色の敦賀半島を眺めながら、もっともっと学び、総合的に考えて、答えを探していかなければと痛切に感じました。
 時間切れも頭をよぎりますが、もう少し時間を頂いてしっかりと発信していけるようになりたいと思っています。




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○インド仏跡参拝紀行文(1)

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○インド仏跡参拝紀行文(6)

○インド仏跡参拝紀行文(7)

○インド仏跡参拝紀行文(8)

○インド仏跡参拝紀行文(9)

○インド仏跡参拝の旅 
 まとめ動画 


○東日本大震災第三回忌に臨んで(前編)

○東日本大震災第三回忌に臨んで(後編)
  
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